復曲能「高安」の舞台演出について 金子直樹

日 時  2017年10月31日

復曲能「高安」の舞台演出について   金子直樹

 2月25日、八尾市文化会館プリズムホール。400席弱の小ホールは、復曲能「高安」の上演を期待する観客で溢れていた。八尾市の高安地区ゆかりの能には「井筒」「弱法師」などがあり、またワキ方高安流、大鼓方高安流の発祥の地とも言われている。
 この地での能「高安」の復曲は、三年の歳月をかけて取り組んできたもので、約300年ぶりの上演とのこと。復曲とはいっても基になる台本はあるとはいえ、舞台上の細かい演出は、音楽面を含め新作と同様に創造力と手間のかかる作業である。出来上がった舞台を拝見した感想と、今後の再演に向けた改善の可能性について考察させていただいた。

能「高安」は、高安の里にやって来た都の男の前に女が現れ、業平が高安の里に通ったこと、そのとき笛を吹いた笛吹松のことなどを語り、後場で高安の女の亡霊が現れて思いを語り舞うという複式夢幻能。『伊勢物語』第二十三段にある男が高安に通うのを送り出す妻の話と、来なくなった男を待ち続ける高安の女の話を典拠として、高安の女を主人公として作られている。

私自身は復曲作業には携わっておらず、出来上がった能を拝見するという意味で、一般の観客と同じ立場に立って拝見した。当日配布された謡本は詞章のみならず、現代語訳や注解など資料の豊富なもの。勉強にはなるのだが、鑑賞前の僅かな時間に読み込むことは困難だったので、上演前に西野先生たちのお話が聞けて理解が深まった。能の上演自体が解りにくいと言われることが多い中、復曲や新作の場合は一層馴染みがないので、今後の再演に際しても何らかの事前解説を付けることで、観客の理解を深めることが必要となるだろう。

舞台を観た印象としては、新作能や復曲能にありがちな説明過多の理屈っぽさは感じられず、比較的素直で自然な流れの複式夢幻能という印象を受ける。これは、単なる廃絶曲の「復元」ではなく、今日まで演じ続けて来たらという前提で、現代の技法で生き返らせようという取り組みの成果であろう。学問的な復元が、得てして制作側の自己満足に陥りがちな復曲作業の中で、観客に見てもらうことを念頭に置いた復曲作業が効果的に作用したものと思われる。

前場は、ワキ(都の男)と前シテ(里の女)とのやりとりから、笛吹きの松の由来や業平の高安通い、そしてシテの思いまでも引き出していく。複式夢幻能の定型的構成であり、内容的には後半の導入として期待感を持たせる場面だが、ある意味で淡々とした展開で、謡を聴きとれない能楽初心者には退屈な場面。あまり思い入れたっぷりにせず、さらりと余韻を残した上演で良かった。

間語りは、間狂言が社人として現れ、ワキに語る。複式夢幻能の通常の間語りは、能のストーリー、主に前場で表現された内容を語ることが多い。謡が聴き取りにくいので、復習の意味もある。今回はそれに留まらず、作品の背景全体を語った。「姨捨」と似かよった効果を狙っているように感じられる。すなわち、能を補完し、作品世界を間狂言の語りで創り上げる役割まで負っている。この構造は効果的で、今後の再演に際し、能の演出が改善される場合、間狂言もそれに伴って変化し、創作されていく可能性も高いと思われる。

後場のクセで井筒の女が胸に抱いた金椀の水がたぎるという『大和物語』の話と、高安の女に愛想をつかす『伊勢物語』の話を描く。ここでシテは舞うのだが、同じ姿のシテが前半は井筒の女、後半は高安の女として舞うことで、観客にはイメージの混乱が起こるのではないだろうか。また、前半の水が湧きかえる場面は効果的だが、後半の飯盛りところの表現の仕方に難しさを感じた。このあたりは台本の改訂を含めた演出の整理が必要かもしれない。

続いて高安の女を訪ねるときに業平が吹いた笛の音が聞こえるという場面で、笛の独奏を聴かせる場面となる。ここは一点写実として印象に残る。クセで客観的に井筒の女と高安の女を描いたシテが、今度は高安の女として自意識に戻り狂気に走るきっかけを見事に描いた。実際に笛を吹かなくても、という意見もあったようだが、初演に関しては、観客に地元の方が多く、笛吹きの松への認識もあるので、笛の音を聴かせることが効果的だったと言えよう。再演を繰り返す中で、より能らしい象徴性を目指せば、松吹く風が笛の音に聴こえるという、観客の想像力に委ねる演出(笛の独奏を敢えて伴わない表現)が可能になるかもしれない。

常の複式夢幻能であれば、シテ幽霊の物語を聞く観客との接点であり、後場では傍観者的役割となるワキの都人たが、今回はかつて業平が高安に通った道をやって来たワキを業平に見立てることで、シテの狂気を引き出して舞に繋がっているようにも見える。イメージ的には「松風」を彷彿とさせる。橋掛リから舞台に戻り、思いを込めて(イロエ掛リ)中ノ舞に高安の女の妄執が集約されている。途中から笛の音程が上がり(盤渉)高揚感が増すところも効果的だった。

「高安」は「井筒」のスピンオフ的作品として面白いテーマを持っているのだが、間語りも含めて井筒の女(有常の娘、業平の妻)のイメージが強く盛り込まれているため、焦点がぼやけてしまう印象もある。高安の女を、もう少し純粋に待つ女としての情念を描き出せると、二人の女の情念のクロスオーバーが鮮明になり、一層印象に残る作品になるだろう。

新作や復曲全体に言えることだが、再演を繰り返す中で演出を磨き上げ、過不足のない舞台に仕上がっていくので、「高安」も度重なる再演によって完成されていくことを期待する。

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